にしせんのつれづれなるままに

日々のふり返りを中心にアップしていきます

学び合い

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今日の朝教室に行くと黒板には

西T出張ご苦労様です

の文字が。おうおう、うれしいねぇと思いながら文字の周りをみると…

もはや出張を労う気、なし笑

 

 

 

 

教採に受かって教師になる前にぼくは「学び合い」に出会った。そこで見た光景は子供が自分たちの力でガシガシ学習を進める、という今までにイメージしていた子供像を覆すものだった。

先生がグイグイ引っ張っていくのではなくて子供が自立している様子がぼくにはキラキラと輝いて見えた。

 


早速実践してみよう!と決意したぼくは初任のときから学び合いを取り入れることにした。しばらくは本で読んだことをベースに学び合いをやっていくことになる。

保護者からなにか言われても、わかってないなーと意に介さず。

曲がりなりにも続けていくこと3ヶ月。ぼくはこう感じるようになる。

 

 

「なんて楽なんだ!」

と。

「オレはやることがないじゃないか!」

と。

 

 

 

今は学び合いの形態こそ教師の力の見せ所だと思っているし、学び合いのときの教師はマジで、超絶忙しい。いつだかの天下一武道会のときの天津飯のように分身したいくらい(能力はそのままで。このネタわかる人いるかなぁ)

 


でも9年前は思いもしなかった。

それはやり方、いや学び合いに対する考え方が間違っていたからだ。

 

 

 

なんでこんなことを書こうと思ったかというと、昨日の算数のことを子供たちから聞いたからだ。昨日は出張でいなかったぼくのかわりに算数少人数の先生がかわりに入ってくれた。45分の流れは

力をつける問題を班ごとに解かせる→授業の最後に答えを配る

だったそう。

 


その方は最後にこういったそうだ。

「なるべく西田先生のやり方でやりたいから」と。

 


そうかー。

で、先生は何してたの?って子供に聞くと

「ボーッとしてた」笑

 

 

 

その方を非難するつもりはさらさらないし、むしろ出張でクラスをあけるぼくのために授業に入ってくれているので感謝、である。なにか狙いがあってあえてそうしていたのかもしれない。

 

 

 

ただ、放課後の雑談の中で子供はこういっていた。

「全然わかんなかった」

と。

 


学び合いはともすると「放任」になってしまう。任せている、といえば聞こえはいいけれど。

 

 

 

肝に銘じなければ。